髪の毛の話

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 黒髪を好む人(以下、黒髪派)というのは一定数存在している。冒頭から突然の告白をする無礼をお許し願いたいが、私もその1人であるのかもしれない。ここで、"である"と断定せずに、"かもしれない"と弱い表現に留めた理由は後述しよう。

 そもそも「黒髪」とはなんだろうか。色が黒く艶のある美しいものが黒髪である。これについて考えたとき、黒髪派は日常的にはあまり目立つ存在ではないことに気がつく。黒髪であった人が染髪したときに彼らは「黒髪が良かった」と述べ、存在が露わになる。確かに、ある節々で対象の黒髪を称賛する者もいるが、私は前者の方が多く見受けられると思う。無論、目立つだけかもしれないが。では何故、黒髪派は黒髪派であるのか。

 ただし対象に黒髪が似合っていると考えている場合は、各々の意見であり掘り下げるには至らないだろう。よってここでは別の視点から「黒髪が良かった」について考察したい。
 4年くらい前のことだが、そこそこ仲の良かった友人が髪を染めた。中学生であり、教師からの指導対象とならないように派手な色にはしていなかったが、わかる人が見ればわかる、そんな染め方。そんな髪に寂寥感を覚えた。なぜ。出会った時から数年来の付き合いの中、彼女は黒髪であった。そのことにより、外見のイメージとして「黒髪のイメージ」が定着していたのだろう。染める理由はお洒落のため、変化を求めたため、流行に乗るため、さまざま考えられる。しかし、いずれの理由にしろ、私が勝手に抱いていたイメージから離れたことは事実である。当時、染髪願望など毛頭なかった私からすると、私と彼女との間にお洒落に対する意識への大いなる懸隔が露見した。これが私の寂寥感の原因であろう。私の知らぬ世界に飛び出した勇気、友人に遅れを取ったという感覚。そういう意味では、黒髪派は懐古厨のようなものなのかもしれない。この私の感想を補強するものとして、もともと黒髪でない人が黒色に染髪したケースが挙げられるだろう。生まれつきブロンドや赤髪の人が黒色に染めたとき、おそらく私は同様の感情を抱くだろう。アイデンティティではないが、自分の中で対象を対象と定義づけるものが失われることに違和感や寂寥感を感じるのだ。すなわち、黒髪派にとっての黒髪とは概念のようなものだ。黒髪はあくまでもこれらの一例であるから、冒頭で私は弱い表現を用いた。私は黒髪派ではない、と信じたい。(少なくとも、そこまで髪への熱い思いはないです。)

 今や多くの芸能人(声優含む)が外見を求められる状況となり、髪を染めている方が多くいる。理由は前述の通り様々だろう。また芸能人には役作りもある。しかし、デビュー当時に黒髪であった方のカラーは好意的に受け取られないことも多い。特に清楚系、正統派系として売り出されていると顕著である。それはやはり、イメージから離れていくというのがあると思う。しかし私は「黒髪が良かった」などと気安く言うことは避けたい。対象のした行為を否定することは避けたいし、こちらが勝手に抱いたイメージを押し付けていることに他ならないからだ。(儲ではない)
 
黒髪派はどうするのか。黒髪派とされる人々は、望む姿を過去の写真からでしか得られないし、黒髪の新しい姿が供給されることはない。一時のカラーが好きという人も同様だ。他界するしかないのか。自身がお洒落に興味をもち、共に楽しむことが最善かもしれない。まったく興味のない世界、お金のかかる世界、そのお金を推しやコンテンツへ、など否定的な感想が思い浮かぶが、ここは"「推しのために」お洒落をする"と割り切ってみたいところだ。

 

なんだかこんなことをつらつらと綴ってきた自分への自己嫌悪的な感情に襲われている。